木村 太郎 Taro Kimura
ジャーナリスト
私を助けてくれたのは、実力試験という「試練の場」
私の思春期には他人に誇れるような話はありません。 無難に過ごせばそのまま大学へ進学できる一貫校に入っていたのに、無駄な抵抗をして学校をサボるは悪さはするはで高校一年の時に退学になってしまいました。すると、当時名古屋に居た父親は、私を呼び寄せてこともあろうに地元の最も厳しい進学校に転入させたのです。
その高校は定期的に大学入試全科目の実力試験を行い、その成績を順位をつけて公表していたのです。転入直後に行われた試験で、当然のことながら私は一学年四〇〇人の三九八番でした。偉かったのは母親で「まだ下に二人いるじゃないの」と笑って言ってくれたのです。
情けなかったのですが、客観的な評価では誰の責任にもできません。そこで少し努力してみると下に二〇人ぐらいを従えることができるようになりました。そうなると順位が上がるのが面白くなるもので、好きになれそうな科目から参考書に目を通すようになると成績の順位が「どんどん」とではなくとも「そこそこ」に上がるようになり、卒業する頃は一〇〇番を切るぐらいまでになりました。退学させられた一貫校の大学を受験して、なんとか滑り込むことができたのです。 こうなると怖いものはなくなります。大学時代は二度海外へ「遊学」して卒業するのが三年遅れてしまいましたが、それで得たものは後年ジャーナリストとしてやってゆく上で大きな宝物になりました。
「私を採らなければ損をしますよ」と入社試験の面接で胸を張ったのは、ちょっとやりすぎだったかもしれませんが。
いずれにせよ、私を助けてくれたのは実力試験という「試練の場」だったと思います。私の場合、思春期の問題は逃げずに立ち向かうことで克服できたようです。
(2017年11月)
Profile
昭和13年(1938年)2月12日合衆国カリフォルニア州バークレイ市で生まれる。
昭和16年日米関係悪化とともに帰国する。昭和39年、慶応義塾大学法学部卒業。同4月NHKに入社。記者として神戸放送局、報道局社会部に勤務する。昭和49年~51年ベイルート特派員、内戦に巻き込まれ戦争の取材に終始したあと、51年~53年ジュネーブ特派員、55年からワシントン特派員としてレーガン政権の誕生を目撃。57年2月に帰国し、「ニュースセンター9時」の4代目キャスターに就任。以後63年4月まで6年間キャスター席に座る。 昭和61年に「第12回放送文化基金賞」、63年に国際報道を通じ、国際理解に貢献したジャーナリストに与えられる「1987年ボーン上田記念国際記者賞」を受賞する。「ニュースセンター9時」の終了とともに63年4月NHKを退社し、同5月木村太郎事務所を開設。
フリーランス記者として新しいスタートを切った。
平成2年(1990年)4月より平成6年(1994年)3月までFNN「ニュースCOM」のキャスター、同4月から平成12年(2000年)3月までFNN「ニュースJAPAN」、同4月より平成25年(2013年)3月までFNN「スーパーニュース」でニュース・アナリストを務める。FNN「Mr.サンデー」に隔週出演中。東京新聞にコラム「太郎の国際通信」を毎週連載中。